あれは俺が四つか五つか、とにかく物心がついたばかりの幼い頃の時のことだ。 父の大きな掌に引かれて連れて来られたエンジュシティは鮮やかな紅葉に覆われ、ほんの少し肌寒い空気に首を竦ませながら見上げた空は陽射しを帯びて綺麗に透き通っていた。秋晴れの青空と木々を彩る橙や黄金の紅葉が覆う鮮烈なその光景は今も瞼の裏に焼き付いている。 それでいて、ジョウト地方一の観光地と謳われるエンジュシティの人の多さに俺は父の手を離すまいとしがみついていた。時折擦れ違う舞妓の艶やかさに目を奪われながらも、そうやって物珍しく色んな方向に首を巡らす俺をたしなめるかのように父は握る掌を緩めることはなく、ただ黙々と歩を進めていた。そうして辿り着いたのは街の喧噪が遠のき、紅葉が地面に落ちるか湧いた音だけが弱々しく響く古めかしい屋敷だった。通りに溢れていた活気を少しも感じさせない寂しい光景に、見上げた空はどこか色褪せて見えた。それでも樟んだ白の漆喰を塗り込んだ塀が視界の端まで連なってる様にごくりと息を呑み、自然と胸中に生まれた緊張と不安をない交ぜにしながら俺は父を見上げた。父は躊躇なく古めかしい門の呼び鈴を押す。 少しの間だけ寒風に吹かれながら待っていると、ぎぃと軋んで開いた門の向こうには和やかに微笑む好々爺が立っていた。言葉を交わす父とその見知らぬ老人を見詰めていると、老人の細い嗄れた掌が降りてくる。穏やかに頭を撫でられる感触に戸惑いながら老人を見上げれば、とても柔和な微笑が向けられていた。相変わらず父の手を離すことはなかったけれど、俺はほっと安堵の息を吐くことができた。そして踵を返すその老人の後に続いて開く門をくぐった父は、そこで初めて俺の手を握る指先を緩めた。暖かい体温に守られていた俺の手は、ひんやりと凪ぐ微風を感じて震えた。 今から大事な話があるから、庭で遊んでいなさい、そう長くはならないから。そう言いながら手渡されたモンスターボールを両手で受け取りながら、何事かと聞き返す前にすでに父の背はほんの少し遠ざかっていた。離れる背中に俺は声を張り上げることもできず、父が玄関の三和土から廊下を曲がるまで、その姿が見えなくなるのを茫然と見送っていた。ボールの中身は恐らく俺の言葉にも一応は従ってくれるポッポで、幼い息子を一人残すのはさすがに憚られたのだろうか、俺の遊び相手になれるように寄越していったのだろう。見知らぬ閑静な場所に取り残されたことで薄れていた不安がまた甦る。けれど父の言いつけがあり、それに逆らって父を追いかけることもできなかった俺は恐る恐る視線を巡らせた。落葉した紅葉が庭の地面をまだらに覆っている。 地面に散る紅葉を躊躇いがちに踏むかさりとした渇いた音と寒風が耳元を過っていく音、そしてささやかな紅葉のざわめきが生まれるなかで、自由に飛び回る鳥ポケモンを出すのは気が引けた。自然の音だけが響く閑静な庭で騒ぐのは幼心に躊躇われたのがあるし、何よりもしポッポがいつもと違う風景に好奇心に任せて動き回ればそれを大人しくさせる自信がなかったのもある。かと言って静かに一人ぼっちで待つにはやはり不安で、手遊びに見つけた小池を覗き込むも凪ぐ水面の向こう側には何も見えない。落ちる紅葉でささやかな波紋が生まれ、水面に映る風景の輪郭が曖昧に揺れる様を暫くぼんやりと眺めていた。 ふと、視線を感じた。きょろきょろと首を巡らすと、紫の煙の塊が離れたところで揺れていた。それがゴースだと俺が理解するのに時間はかからず、マダツボミの塔で見慣れているその姿になぜゴースがこんなところに?と首を傾げる。庭に面する屋敷の廊下の上でふわふわと漂いながら、ゴースは俺をじっと見つめていた。近寄ってはこないものの、人懐っこい瞳に俺は関心を惹かれ、ゴースなら慣れているからと小池の傍らから離れる。心持ち音を立てずにひっそりと近寄り、逃げようとしないゴースに安堵を覚えながら賢明に手を伸ばした。ゴースはそんな俺の指先を掠めてすうと遠ざかり、障子の向こう側に消えてしまった。 俺はどっと落胆して、肩を落とした。せっかく遊び相手を見つけたのにと嘆息し、やっぱりポッポを出そうか出すまいかと悩む。するとゴースはまたひょいと眼前に現れた。驚いて固まる俺に、ゴースは悪戯好きな笑顔で障子を擦り抜け、消えてはまた現れ、現れてはまた消えてを繰り返し、何回目かの往復で完全に障子の向こう側へと姿を消した。ゴースの意図が読めずに困惑していた俺は、ようやくゴースの誘いが理解できた。ふと父の言葉が甦る。庭で遊んでいさないと言う父の姿が浮かんだけれど、俺は格好の遊び相手を追いかけることを選んだ。少なからず不安や寂しさを覚え、うずく好奇心を抑えられなかった俺は傍らの沓脱石に草履を脱ぎ捨てて廊下に上がり、ゴースが消えた障子を静かに引いた。案の定ゴースは、畳が敷かれた部屋の真ん中でふわふわと漂っていた。 だだっ広い屋敷のなかでの追いかけっこはしばらく続いた。寸でのところで伸ばす指から遠ざかるゴースに捕まえられそうで捕まえられないむず痒さを覚えた俺は、半ば意地になってゴースを追いかけ回した。しんとした静けさが広がる部屋や廊下を行ったり来たりして、一度立ち止まってようやく振り返ったのはゴースが小さな下り階段に潜り込んだからだ。知らない静かな屋敷のなかでも、外の明るさが分かるほどに光が廊下に溢れているから不安はない。けれどゴースが潜り込んだそこを覗きこめば、辛うじて紫のガスが見えるぐらいの薄闇がぼんやりと立ちこめていた。ごくりと喉が鳴るのは、ゴースに試されているような感覚を覚えたからだと思う。今ならまだ元の庭に戻れるかもしれないと囁く声がないでもなかったのに、あの時の俺はゴースを追いかけることを選んだ。それは間違いなく意地だったし、ゴースはどこかに俺を連れて行こうとしているのかもしれないという疑問が生まれつつあったせいもある。どうせならそこまで付き合ってやろうと奮起しながら、俺は一歩その下り階段に足を踏み出した。ゴースは相変わらず、意図の読めない悪戯好きの顔をしていた。 階段を降りた先の廊下は薄暗く、蝋燭の光がぼんやりと俺の足元やふわふわと浮かぶゴースの背を照らしていた。俺はその背を少し睨みながら、好奇心とか意地とか少しの不安とか、色々な感情に逸る心を抑えるようにゆっくりと歩く。そんな俺の歩調に合わせるようにのんびりと空中をたゆたうゴースに、やっぱりどこかに連れて行こうとしているに違いないと俺は確信していた。しばらくして昇り階段が見えた。迷うことなくふわふわとそこを昇っていくゴースを目で追う。もう俺自身もどう言い表していいか分からない感情にばくばくと鳴る心臓を掌で押さえながら、俺もまたその階段に足を掛けた。 そう長くはない階段を昇り終えたところに俺の視界に広がったのは、板張りの殺風景な小さな部屋だった。燭台に乗る蝋燭の灯火のぼんやりとした光でも充分に見渡せる何もない部屋を戸惑いながら見渡していると、確かに端に寄っていたゴースの姿がこつ然と消えた。俺はぎょっとして、慌ててゴースが消えたところに駆け寄る。そうしてよくよく眺めると、壁のように思えたそこには、俺の目線の少し上に扉の取手があった。ここまで来て今更迷うこともないだろう。鬼が出るか蛇が出るかとどきどきしながら手を伸ばす。それでもあの父の息子だという誇りだけは立派に備えていた俺は、伸ばした片手で掴んだ取手をゆっくりと引いた。 「……ゴース?」 ぎぃと蝶番が軋む音に紛れて、俺の耳に届いたのはか細い声だった。開いた隙間からそっと窺うと、確かにゴースが纏う紫のガスが光を反射してきらきらと煌めいているのが見えた。そしてその横で、同じように眩く煌めく黄金の髪の毛が揺れていた。 蝋燭の灯火ばかりの仄暗い部屋とは一転して、ささやかな陽射しが差し込んでいる明るい空間と紛れもない人の声に、俺は警戒するように扉の向こうに足を踏み入れる。 「本当に連れて来たの?……ゴースがごめんね、ハヤトくん」 唐突に呼ばれた名前に俺はびくりと肩を竦ませた。驚いて声の出所を見遣ると、まばらに揺れる黄金の細い髪から覗く、不可思議な紫苑を湛えた双眸とかちりと目が合う。そのままごめんねともう一度言って細められた瞳に言いたいことはあるのに、どうしてか言葉が出ずそのまま足に根が生えたかのように佇む俺に、ゴースがふんわりと近寄る。相変わらずあの人懐っこい瞳でじっと俺を見つめるゴースの思惑が一向に読み取れず、思わずどうしてこんなところにと口に出してしまいそうになったその時、ハヤトくんハヤトくん、と穏やかに呼び掛けられる。視線を移すと、木造の太い格子の隙間から白い指先がひらひらと舞っていた。そうして初めて、俺はこの明るい空間を見渡した。と言っても、眼前に聳える格子状の壁にすぐに視線は阻まれる。鳥かごのような造りをする壁に眉をしかめ、けれど請われるままに恐る恐る突き出される手に近付いた。格子の間隔はそう小さくなく、そうやって近付いて初めて声の主のふんわりとした微笑みを間近で見ることができた。 「ハヤトくんがね、今日エンジュシティに来ることは知っていたから、無理だろうけどお話できたら良いかもねなんてゴースに話してたんだけど、まさかゴースが本当にゴースが連れて来るとは思わなくて」 ごめんね、と繰り返される謝罪にはどこか楽しげな色が含まれていて、俺はますます唇を噤んで戸惑う。恐らく年上だろう少年の言っていることが分かるようで分からず、何と返したらいいかその時の俺には思い浮かばなかった。それに格子越しとは言え間近で見る彼は滅多に目にすることのない色を光のなかで鮮やかに纏い、まろやかな輪郭で綺麗に縁取られている彼の造形に俺は言葉に詰まった。気軽に喋ることが許されないような神秘めいた雰囲気すら感じていて、だから眼前の彼をじっと見つめることに気後れした俺は落ち着きなく視線を巡らす。 そうしてふと目に入ったのが格子と格子の間に刻まれた線で、もしかしたらここが扉なのかと思うと同時に俺は手を伸ばしていた。そのまま手をかけた格子を引っ張ると、がちゃんという予想外の耳障りな音が大きく響き、思わず肩を揺らしてしまう。かけた手の下を見下ろすと、見るからに頑丈な錠が鈍い煌めきを放っていた。 「……ごめんね、ここは入ることも出ることも出来ないんだ」 先程まで穏やかに紡がれていた声色の微かに濁ったようなものが耳元に落ち、それに釣られて見上げた先にはほんの少し影が落ちた微笑があった。改めてその向こう側まで見渡すと、この明るい空間に満ちる陽射しは彼の背丈では到底届かない高い位置に嵌めこまれた格子窓から降り注いでいて、その窓の端には僅かに紅葉の色が覗くのが見えた。彼の後ろに聳える棚には頭がくらくら揺れるほどの蔵書が詰め込まれていて、彼の手元にも数冊が乱雑に積み上げられていることに今更気付く。 外の秋晴れを伝える明るい陽射しに反射して輝く淡い黄金の髪に反して、青みがかかった紫の瞳には翳りが灯っていた。視線だけで振り返ると、後ろで漂うゴースは何も変わらない瞳で俺を見つめている。眼前の彼のポケモンの心中だけがようやっと理解できた俺は、その瞬間に無意識に口を開いていた。父さんが来るまでなら話せる、と。 そこからはただ他愛ない話が格子越しに交わされた。というより、彼は何故だか俺の話ばかりを聞きたがり、エンジュシティの様相やキキョウシティの街並、果ては俺が父に付いて行った記憶もあやふやな他の地方にまで話が及び、俺は懸命に記憶を掘り起こしながらつらつらと言葉を綴っていた。それは頭の片隅から格子に嵌められた錠の影が消えず、入ることも出ることも出来ないという言葉が離れないせいもあったかもしれない。視界に錠が入らないように視線を巡らせていた俺の様子に彼が何を感じていたか分からないが、彼はただ年下の拙い話の内容に瞳を輝かせながら耳を傾けていた。ボールから出したポッポも彼の腕に親しげに足を降ろし、彼の指先に撫でられれば心地よさそうに鳴いていた。好奇心旺盛なポッポがいつ好きなように飛び回り、あるいは傍らでふよふよと漂うゴースに飛びかかるのではないかと気も漫ろだった俺の懸念をよそに、ポッポは最後まで彼の周りを小さく飛ぶだけだった。 彼の両の掌に乗って毛づくろいをするポッポとそれを言葉少なに、そして穏やかに見守る彼を眺めていた俺の耳に、どこからか父が俺を呼ぶ声が聞こえた気がした。思わず振り返っても俺が入ってきた簡素な扉が視界を覆うばかりで、父の姿などどこにも見えず、まして複雑な道を辿って行き着いたここに父の声が聞こえるはずもない。それでも脳裏には父の言いつけが甦り、途端に落ち着かなくなった俺に彼はまたふんわりと笑い、掌に乗るポッポを俺に返しながら言った。 「ハヤトくんが来た道とは別の道があるから、そっちから行けばすぐに庭に出られるよ。地下を通るから少し暗いかもしれないけれど、またゴースが案内してくれるから」 受け取ったポッポをボールに戻すと、ゴースが出番が来たとばかりに嬉しげにガスを揺らしながら俺の傍らに寄り添う。俺はと言えば何となく感じる名残惜しさや去り難さに重しをされたように、立ち上がりはするものの足はそこから動かなかった。入ってきた時は近寄りにくさに動かなかったのに、今度は離れにくくて動けないなんて、と俺自身でもぼんやり思いながら、せめて何か言い残せればと言葉を探るも上手くいかない。そうやってきゅっと口を噤みながら渋っていると、彼はすっと格子の合間から伸ばした手で俺の手を握った。触れた掌は当たり前だけど俺より一回り大きく、けれどとてもひんやりとしていた。 「また会えるよ、ハヤトくん」 俺の名前のことといいこのしっかりとした言い様といい、彼の何もかも見透かしてるようでいて宥めるようなその声色に、恐らく彼の瞳には俺は無言で駄々をこねる年齢相応の幼子に映っているのかもしれないと思えた。なぜか未だ覚えたことのないほどの深い情けなさが全身に広がり、彼の瞳を見つめ返すことも出来ぬまませめて彼の掌が離れる前にと、俺が彼のそれから指先を引き抜いた。ささやかに冷えた指先に後ろ髪が引かれるような思いを感じるも、どこからか響く父の声に押されるように踵を返す。彼が見守っているのを背で感じながら、俺は今初めて気付いたことに驚いて、慌てて振り返った。 「名前を、」 まだ聞いていない、更に情けないことに続く言葉は掠れてしまい、けれど彼には意味が伝わったらしく、あの不可思議な紫苑を湛えた双眸をぱちぱちと瞬かせた。そうして薄く開こうとする唇に期待しながら言葉を待っていると、彼は相も変わらず穏やかな声色で囁くように言葉を紡いだ。 「また、会えるから」 それ以降の記憶は朧げで、意識してやっと道筋を辿れることが多い。ただ、落胆や不満が入り交じった納得いかなさをを抱えつつも、せっつくように周りをふわふわ揺れるゴースや閉じた唇で緩やかに笑いながらこれ以上何も言う気はないと言いたげな彼の雰囲気に押し負けて、俺は結局そのまま扉から出た。ゴースが案内するまま蝋燭の灯火で照らされる仄暗い道を辿り、確かに彼の言った通り独特の冷えた空気が積もる、石壁が剥き出しの地下を通り過ぎ、そうして昇った階段の先にあった扉を開けると視界に光が広がった。掌を額に翳しながら、扉の隙間から窺うように顔を出した俺の瞳には秋晴れの鮮やかな青い空が眩く映り、そう時間が経っていないことを知る。いつのまにか姿を消していたゴースが再び俺の前に現れた時、ゴースの口元には脱ぎっぱなしにしていた俺の草履が銜えられていた。礼を言って草履を受け取ると、役目は終わったというように、ゴースは俺を振り返ることなく階段の下へと漂いながら、暗がりの中に姿を眩ませた。草履を履くもここがあの庭のどこか分からず、適当に歩みを進めていると縁側に出て俺の姿を探す父を見付けた。まるでついさっきまで遊びに夢中だった子どもを装うように、息を弾ませて近寄った俺に父は探したぞと笑い、どこまで行ってたんだと聞く。脳裏に彼の姿が鮮明に甦り、交わした言葉までも過ったけれど、俺は裏まで入り込んでしまったんだと言った。父に初めて吐いた嘘だった。 あれから季節は幾度も巡り、気付けば俺は恐らく、あの時の彼の年齢すら越していた。 父に連れられてエンジュシティを訪れる機会はあれど、ついぞ彼の姿を見ることはなかった。彼はまた会えるからと名前すら教えてくれなかったが、それがいつなのかは俺には一向に分からず、エンジュシティに行くことがあれば無意識に彼の姿を探していた。父を始め、周りの大人には彼のことは聞き難く、彼に口止めされたわけでもないのに俺は彼のことについては俺の心のなかにだけ留めていた。それが正解かどうかは分からないが、時折彼の姿や声が脳裏を過り、その度にもう一度会えたらいいのにと想いが募る。記憶を重ねるほど彼の姿形は綺麗なものにしか思えず、紡がれる声は不思議なほど細く心地よい音を記憶のなかで奏でていた。その一方で上手く話せていたか甚だ怪しい俺の話に瞳を輝かせながら聞き入る様子は年相応の子どもで、その時の彼の年齢を越した俺は彼の境遇に思いを巡らせては嘆息した。彼を思い出せば彼の有様も思い出されるのは当然で、今思い返せば人気の無い仄暗い廊下を通ったり分かりにくく扉が閉ざされていたり、何より今でこそ座敷牢なのだと分かるあの空間に彼はぽつんと座り、入ることも出ることも出来ないと俺に告げていた。随分と世間を見るのにも慣れてきた俺にはあの賑やかな古都の裏側を垣間見たような邪推しか浮かばず、その為に一向に出会うことのない彼に得体の知れない焦燥が生まれていたのも確かだった。彼は今どこにいるのか、もう一度会えるのか。けれどやはり大人には聞けず、父から譲り渡されたポッポを、あの日の彼がそうしていたように指先で撫でながらもう一度会えたらいいのにと零す日々が続いていた。 それでも時間ばかりが過ぎていき、積み重ねた面影は俺自身もどう言い表していいか分からない想いを象っていった。幼い頃に見た美しいものへの憧れのような、そうかと思えば決して褪せることのない初恋の記憶のような、とにかく曖昧に彩られる想いは俺の胸中で確かに膨らみ続けている。けれどそれが彼に会う術に繋がるはずもなく、ただ言い様のない懸想に似た想いだけが彼の面影を支え、そこから甦る記憶がまた想いを募らすことを繰り返していた。 気付けば常に見ていた父の背中はいつのまにか俺の前から消え、その代わりであるかのように俺はキキョウジムのジムリーダーを任せられることとなった。あの父の代わりも務められるようになったのかと誇りに思う一方で、やはり不安な気持ちは消せず、気力も萎む俺に周囲は励ますかのように口々に言うことがあった。ヒワダジムのジムリーダーは君より幼いし、それでも不安ならエンジュジムのジムリーダーを訪ねてみればいい。君より少し年上だけど、年は近いし、向こうも代替わりしてそんなに時間は経っていないから何かと頼れるかもしれない。エンジュジムのジムリーダーが代替わりしたことだけは耳にしていた俺は、そういえば長くエンジュシティを訪れていなかったと思い返す。父と共に最後に訪れたのは大分昔で、父の代わりに俺がジムリーダーを務めることが決定してから、その代替わりを迎える前後は俺も周囲も大わらわで他の街を訪れる余裕はなかったに等しい。一度だけ父から例の代替わりしたエンジュジムのジムリーダーの話が出た時があり、その時父は全くマツバくんは優秀だと珍しく他人を褒めていた。マツバ、と名前が口をついて出たと同時に、彼の面影が変わらず鮮明に瞼の裏に映る。最早父と共にエンジュシティを訪れることは叶わない。朧げな記憶を掘り起こすと、あの時幼かった俺の頭を柔らかく撫でた老人の姿が思い返される。恐らくその人が先代のエンジュジムジムリーダーで、最近俺と年の近い人に代替わりしたと言う。 今度こそ、彼の行方を聞けるかもしれない。 秋の色に彩られるエンジュシティの街並は相変わらず賑やかで、絶えない喧噪は眩い秋晴れの空に吸い込まれていく。木々も何も変わらない鮮明な黄金や橙を纏い、ただ俺の目線だけが成長した背に合わせて高くなっていた。人ごみに紛れて忙しく視線を巡らすも、やはり彼の面影に似る人は見つからない。古都に相応しい褪せた薄い色彩の建物が建ち並ぶなか、彼の容姿がそのままであれば目を惹きそうであるから見逃すはずもなく、やはりこれから相見える年の近いジムリーダーに聞くしかないのだろうかと考え倦ねる。躊躇してしまうのは、触れてはいけない禁忌の有様をそのまま表わしたかのようなあの座敷牢の空間が思い起こされるのもあるし、どこか俺の記憶にだけ秘めておきたい出来事だからというのもあった。そんな昔の面影に抱く独占欲めいた感情がどろりと心の奥底で澱めど、やはり彼にもう一度会えたらと望むのも事実だった。どのみち、この辺りで決着をつけておかないと酷いことになるかもしれないと思う。面影だけに重ねた想いの丈は、恐らく俺自身にもどうしようもないほど膨らんでいた。 少しだけ通りから外れたところに佇むエンジュジムは喧噪と彩に乏しく、ぞわりと悪寒すら走るのはここがゴーストタイプエキスパートのジムだからだろう。そんなところにまでもゴースを傍らに漂わせていた彼の面影を投影してしまい、我ながら単純すぎると嘆息しながらジムの門戸を叩こうした時、伸ばした手はすかっと空を切った。 「お客さん?」 音もなく開いた門戸と眼前に現れた人間に俺は言葉もなく瞠目した。挑戦者でもないみたいだし、と独り言のように呟くその容姿を捉えて、純粋に突然開いた門戸への驚きがじわりと別の感情へと挿げ替えられる。相変わらず鮮明に脳裏に描かれる彼の面影の彩りは、眼前で俺を見下ろすその人に重なった。記憶と違わず光を反射して煌めく樟んだ黄金の髪は肩口の近くまで伸び、毛先が柔らかく跳ねている。光の少ない紫苑の双眸は変わらず、緩やかな線で縁取られる輪郭は幼い子どものまろやかさを幾らか削ぎ落とし、俺と同じように彼も成長したことを思い知らされるものだった。 ただ、俺を瞳の中に映しながら、にこやかに唇は弧を描くも一向に口を開かない様子に俺は僅かに落胆した。彼も俺のことを覚えているのかもしれないという淡い期待を過剰に抱いていたわけではなかったが、また会えるからと言葉にしたのは向こうなのにと知らず知らずの内に眉根が寄る。結局門戸を叩くことはなかった手を降ろし、脳裏に面影を深く刻みこみながら用意してきた挨拶の口上を述べる為に俺は口を開いた。 まだ、だ。眼前の人は確かに彼に重なるところが多いが、成長した彼だという確証は何もない。 「先日新しくキキョウジムジムリーダーに就任したものですが 「ああ、聞いているよ。わざわざ挨拶に来てくれたんだね……僕がここのジムリーダーのマツバです」 よろしくと差し出された掌に俺が気付けずにいたのは、マツバと名乗る彼が綴る言葉は丁寧に記憶の奥底を刺激したからだ。あの時より幾らか低く、けれど不可思議な音を纏いながら穏やかに紡がれる声色は不協和音を生み出すことなく綺麗に記憶のものと重なった。一瞬心を狼狽で掻き乱された俺がはっと気付くと、マツバは差し出した手の行く末にほんの少し困って首を傾げていた。慌ててその掌を握ると、秋の涼風に撫でられたにしてもひやりと冷えすぎた指が俺の掌を覆う。その冷たさに、こちらこそと唇に乗せた言葉は萎むように掠れていった。 だって、これではまるで 「また会えたでしょう、ハヤトくん」 囁くように紡がれた言葉が耳に届き、その意味を咀嚼する前に俺は目の前のマツバを見上げた。双眸を細めて穏やかに微笑む有様は何も変わらず 突き破られた記憶の殻の破片は次々と意識の波間に沈み、それを鮮明に彩っていた名前のない想いも後を追うようにずぶずぶと沈んでいく。名前のない想いが過去に変わって |